大和製作所 40年の歩み 上 (使命を明確にするまでの20年間)

 

40年間を静かに振り返ると、私の事業家としての歴史は、数えきれないくらい、たくさんの失敗の歴史そのもので、実に多くの失敗の積み重ねであり、ここまで生き残ることが出来たのは、まったくの奇跡そのものです。

 

40年間の長きにわたり、ここまで無事に来ることが出来たことは、神さまのご加護、或いは、ご先祖さまが守ってくれていたとしか思えないのです。

 

当然、多くの先輩方にも助けて戴き、多くのお客さまのご支援も戴き、多くのスタッフたちの協力があり、今日を迎えることが出来ているのですが、それと併せて、幸運に恵まれ、ついていたことは外すことが出来ないのです。

 

私が川崎重工を退社して起業したのは40年前の27歳になったばかりの秋で、窮屈なカゴの中から、自由な青空の広がる世界に放たれた小鳥のような心境だったことを覚えています。

 

これからは自分の意志で何でも出来る、何でも可能だと、青雲の志を抱いての出発で、川崎重工在社時は、それなりに仕事をこなし、仕事に対する取組み、自信も相当なもので、自信満々の出発であったのです。

 

自動機械とか工業用ロボットのような精密な機械の設計の仕事を狙っていたのですが、実際に仕事を探し求めてみると、オイルショックの直後で、新参者の私に仕事を発注してくれる会社はなかったのです。

 

それからは生きていくために、妻子を養うために必死の営業活動が始まりましたが、事業を始める前は、営業活動が必要であるとは思ってもいませんでした。

 

発注して貰える仕事は、どんな小さい仕事でも何でもこなしていき、その時点では、例え能力がなく、出来ない仕事でも背伸びして引き受けてから、研究、努力して、納品してきましたし、そのようにやるしか方法がありませんでした。

 

仕事のえり好みなど出来ず、出来ない仕事でも無理やり受注してこなしていかなければ生きていくことが出来ないので、どんな仕事でも要望があれば引き受けるようにしていました。

 

 

この頃から、私は背伸びをして、どんな無理な課題でも解決する癖が付き、何でも屋になり機械設計だけではなく、電気設計でも土木でも現場の工事関係でも仕事があれば何でも受注していました、というか受注せざるを得なかったのです。

 

荷物用エレベーター、アイスクリーム製造機、寿司ネタの海老の背開きをするエビカッター、すし飯用温風冷却機、すしネタ用エビ自動ボイル、背開き機、近くにあった屠畜場の仕事、ベーコン製造の自動化ライン等も設計だけでなく、製造、電気配線、配管工事、現場工事とすべて自分でやっていました。

 

色んな仕事に取り組んだお蔭で、幅広く、いろんな知識、経験が出来、その後、製麺機の製造販売業を始めるのに大いに役立ちました。

 

創業する前から、ホンダ技研を作った本田宗一郎さん、ソニーの盛田昭夫氏等の書籍は随分読み、特に本田宗一郎さんの生き方からビジネスの取り組みの姿勢を教えられたのです。

 

本田宗一郎さんは戦後間もないころから、オートバイで世界一を目指し、オートバイの世界での世界的なマン島のレースを見に行き、ぜんぜん歯が立たなかった世界の強豪にチャレンジし続け、短期間で世界一の座を確保しました。

 

私も同じ人間だから、同じように努力すれば、同じようなことは出来るのではと思い、本田宗一郎さんのように真似をしないで、業界にはなかった新しいコンセプトの製麺機「真打」を作り上げたのです。

旧真打_S1284AS

最初の数年間は何でも屋でしたが、これではビジネスとしての効率が悪いことが分かり、地元が讃岐うどんの本場であったために、麺の機械に関する仕事が徐々に入り始め、そのうち、製麺機一本で勝負するように決意し、その当時は画期的であったうどん用製麺機「真打」を開発に成功したのです。

 

当時、「真打」は、コンパクトな1台の中に、ミキサー、プレス、ロール、カッターを備えた、使いやすい上に、美味しい手打ちうどんが作れる機械であり、ここまで生き残ることが出来た、他の原因を考えてみると製麺機メーカーを最初に目指したときに、トップを目指したこと、トップを目指すに当たり、このビジネスの本質は何かを考え、麺の美味しさであると理解し、麺研究室を作り、麺の美味しさの研究に没頭したことが挙げられます。

麺研究用の機器

麺研究用の機器

 

 

ビジネスの本質の理解が最初に重要な事項であり、次に製麺機自体については、一切他社の真似をしないで際立った個性を追求したこと、狭い場所に設置できるようにコンパクトにしたこと、女性で楽に安全に使えるように安全性を追求したこと、デザインの大切さを理解しデザイン性を追求したこと等、製麺機としての商品力を向上させたことです。

 

私はもともとエンジニアだったので、機械の設計とか開発は専門であり得意であったのですが、最も困ったのが作った商品を販売することでした。

当時も営業が非常に苦手であったので、販売面でも苦労した結果、ライバルのいない新参者にも温かい手を差し伸べてくれた日本の南端の南九州から販売を始めたことが、販売が軌道に乗るきっかけになったのです。

 

九州でうどん用製麺機の販売を始めると、少しずつ売れ始め、販売が徐々に軌道に乗り始めたのですが、九州市場ではうどんだけではなく、ラーメンの製麺機も必要なことが分かり、ラーメン用製麺機「リッチメン」を開発して、九州市場を現地で採用した営業員に任せて私は関西地区の営業を始めました。

 

そこでもある程度経ったときに、営業員を採用し、彼らに関西市場を任せて、東京へ攻め上りましたが、東京ではうどん、ラーメンだけではなく、蕎麦用製麺機がないと市場を攻略できないことが分かりました。

有名な手打ちそばの先生方に師事して、本格的な蕎麦技術の習得を行なった結果、その先生の監修により蕎麦製麺機「坂東太郎」が完成し、本格的な水捏ね、包丁切りの十割蕎麦が出来る蕎麦用製麺機として売れ続けています。

 

その結果、関東市場でも営業員を採用し関東営業所を開設しましたが、その頃、大型自動製麺機の開発、製麺実験工場「ジャパン・フード・リサーチ」(現在の関連会社「讃匠」)を作りました。

 

韓国での営業も始め、文字通り西に東に八面六臂の活躍をしていた時分というのは、丁度創業して10年が経たない頃です。

私は起業する前はホンダ技研を作って華々しい活躍をしていた本田宗一郎さんにあこがれていたので、素晴らしい技術で画期的な商品を開発すれば、ビジネスは大成功すると信じていました。

 

しかし、幾ら新しい機械を開発しても経営的には楽にならず、むしろ経営的には厳しい時代が続き、常にお金が足りない自転車操業のような時代が、創業以来、10年も20年も30年も続いたのです。

 

販売面で苦労した結果、ライバルのいない日本の南端の南九州から販売を始めたことが、販売が軌道に乗るきっかけになりました。

九州である程度地盤を固め、関西、関東と徐々に攻め上り、その後ソウルでの営業を展開したのですが、その頃はなかなか経営が安定しなかったのです。

 

創業以来、約20年間、麺の研究と製麺機の開発に多くの資金を投入してきたので、社屋や車など会社を立派に見せる方面には投資するお金がなく、そのころの社屋は非常にお粗末で、ライバル他社と常に比較されていたのです。

 

そうした頃、生麺の製麺実験工場としてスタートした関連会社「讃匠」の方が先に、薄明かりが見え始めたので、麺ビジネスは可能性があると思って、その頃市場で出現し始めた冷凍麺用製麺機の開発に乗り出すようになりました。

 

ある人の情報がきっかけになり、冷凍麺だけではなく、冷凍飯の製造ラインが将来大きな可能性があるとのことで、このラインの受注をし、何か月にもわたる悪戦苦闘の結果、開発を成功させ、素晴らしい品質の冷凍飯ラインを完成させたのです。

 

ところが、情報提供者の情報がデタラメであったことが後で分かり、結局当社は何億という、莫大な損失を出す結果になったのです。

 

当社の大きな失敗はこれだけにとどまらず、韓国ビジネス、国内での大型機ビジネスで立て続けに何億という大きな失敗を重ねて行きました。

 

消費税が初めて導入された25年程前、大型の冷凍麺ラインの7億円余りの大きい契約を結び、既存の工場では生産出来なかったので、新しい工場用地を1500坪ほど買い求めたのもその頃で、その土地は今も持っていて、今後有機農法無農薬の農場にしようと思っています。

 

これ以外にも私が犯した失敗は数限りなく、幾ら紙面があっても足りなくくらいのたくさんの失敗を繰り返しましたが、会社経営に苦しんでいた約20年前には、実にさまざまなことがあり、多くの恩人との出会いがあり、何人もの方に当社を救って戴いた恩人がハチバン・ラーメン創業者の故後藤会長、モス・バーガー創業者の故桜田会長を始め、その他にも多くの方々にどれほどお礼を述べても、言い尽くせません。

 

既に亡くなられた方も多く、そのような方々にはお返しが出来ませんので、もっともっと頑張って、世の中に貢献することがせめてものお返しではないかと思っております。

 

そして、同じ20年前ころ、会社の使命「麺専門店繁盛支援会社」を明確にしたころから、やっと企業としての方向性がつかめるようになり、打つ手がだんだんと当たってきたのです。

 

「年中無休365日メンテナンス」を始めたのもそのころで、「麺専門店繁盛支援会社」であれば、お客さまが最も忙しく、機械の故障の多い、日曜日、祭日にメンテナンスが出来ないのはおかしいと思い、社内で訴えたのですが、最初はなかなか理解して貰えず、時間をかけて説得したのでした。

 

「年中無休365日メンテナンス」が軌道に乗り始めたころ、約15年前に、うどん学校を開校し、4年後にラーメン学校、蕎麦学校を開校し、無化調、無添加の方針で授業を行ない、「デジタルクッキング」の手法を生み出したのです。

当時のうどん学校パンフレット

当時のうどん学校パンフレット

 

現在では、世界中で、当社の多くの卒業生が活躍し、業界の進化、発展のお役に少しは役立っているのではと思います。

 

そして、約10年前に、念願であった小型製麺機市場で、国内トップメーカーになることが出来たのです。

香川県坂出市 旧営業本部

香川県坂出市 旧営業本部

 

振り返ってみると、私が失敗を繰り返してきたのは、店舗用小型製麺機のビジネスではなく、冷凍麺のような大型機関連ばかりであったのと、日本経営合理化協会の牟田理事長のアドバイスで、大型製麺機の製造販売から撤退し、小型製麺機に集中しました。

 

そして、その頃、気付いたことが使命の大切さで、それまでの当社は製麺機の製造販売業であると、社員も私も信じていました。

 

しかし、同じように製麺機を販売しても繁盛して成功するお客様と、反対に駄目になって閉店するお客様がいて、大きなお金をかけての開業ですから、閉店するとお客様の人生が狂ってしまいます。

 

そこで当社は、単なる製麺機の製造販売だけを行なっておれば良いのだろうかと疑問を持ち、そうではないのではなかろうか、本当は、当社は「麺専門店繁盛支援会社」でなければいけないのではなかろうかと思い始め、当社の使命を「麺専門店繁盛支援会社」と明確にしたのです。

 

その結果、最初は全社員が反対した「年中無休365日メンテナンス」を無理やり開始したのです。

 

当初は大変でしたが、徐々にお客様の信頼が増して、それまで小型製麺機市場で業界2位であった当社がとうとうトップになることが出来、使命を明確にした結果、会社が大きく変わり始めました。

香川県宇多津町 本社

香川県宇多津町 本社

 

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